『資治通鑑思政殿訓義』 : 李 載 貞

歴史から教訓を得ようとする考えは、古今東西にわたって存在すると思われますが、儒教的な価値観において、特にそれは強烈でした。儒教を国家理念に掲げていた朝鮮では、言うまでもなく歴史が大変重視されました。朝鮮の統治者と知識人たちは、儒教理念に実直な統治のために歴史から教訓を得ようとしましたが、この際に指針書となった代表的な書が『資治通鑑』でした。

資治通鑑、統治のための鑑(かがみ)

『資治通鑑』は、中国北宋時代の政治家で歴史家でもあった司馬光(1019~1086)が、第5代皇帝英宗(在位1063~1067)の命を受けて編纂した中国の歴史書です。司馬光はこの本で、紀元前403年の周の威烈王代から宋の建国直前に当たる五代時代の960年までの歴史を時代別に叙述しました。1362年にもわたる期間の歴史を叙述したところ、294巻にも及ぶ膨大な分量になったのに加え、書を完成させるのに19年も要したといわれています。

中国の歴代王朝で起こった事を年代別に記録した『資治通鑑』は、人間のさまざまな行動と思考を包括しており、統治者が国を治めるための必読書でした。第6代皇帝の神宗(在位1067~1085)が下賜した書名である『資治通鑑』とは、まさに「治」める上で「資」する歴代を「通」じた「鑑」(亀鑑、かがみ)という意味です。以来この書は、「統治のための教科書」、「帝王の書」と呼ばれ、中国や韓国の統治者に広く読まれ、多くの注釈書も登場しました。

世宗が眠る時間を削って校正を手掛けて完成した書

『資治通鑑』がいつ朝鮮半島にもたらされたのかは明確ではありません。ただ、高麗時代中期の文臣である金富軾(1075~1151)が『三国史記』を書く際に『資治通鑑』を参考にしたと述べていることから、高麗時代にはこの書がすでに朝鮮半島に伝来していたことは明らかです。

『資治通鑑』が統治のための書として特に注目を浴びたのは、朝鮮時代に入ってからです。朝鮮の太祖李成桂(在位1392~1398)は、彼の即位の教書で、官僚は四書や五経とともに『資治通鑑』に精通した者を採用すると宣言しました。第3代王の太宗(在位1400~1418)もまた、『資治通鑑』を読んで臣下と意見を交換したといいます。

しかし、『資治通鑑』は分量が途方もなく多く、その内容を理解するのが困難なだけでなく、書籍自体の入手も容易ではありませんでした。そこで、第4代王の世宗(在位1418~1450)が、朝廷に設置された学術研究機関である集賢殿の学者とともに、自国の人民がこの書に接する際に理解しやすいように朝鮮版『資治通鑑』を編纂するプロジェクトを立ち上げました。

1434年(世宗16) 6月に始まったこのプロジェクトは、翌年6月に完了しました。集賢殿を中心として、当時の学者のほとんど全員が参加した同プロジェクトのため、世宗は臣下が王に儒学を講義する経筵を一時的に中断させたこともありました。

世宗は、この作業の進捗状況を几帳面に点検しました。同プロジェクトの核心的な参加メンバーだった臣下に、その日に編纂されたものを夕方に王のもとに持参させ、みずから夜遅くまで原稿に校正を加えました。世宗は臣下に対し、次のように話しました。

「近ごろこの書の文を読むことで読書の有益さが分かった。聡明さが日を追うごとに増え、睡眠の時間がとても減った」。

世宗の主導により編纂された『資治通鑑思政殿訓義』巻236(宝物第1281-1号)の巻首部分

世宗の主導により編纂された『資治通鑑思政殿訓義』巻236(宝物第1281-1号)の巻首部分

こうして編纂された書が、『資治通鑑思政殿訓義』です。思政殿は、景福宮勤政殿の裏手にある殿閣で、世宗が集賢殿の学者といつも経筵を行った所でした。「訓義」とは、「意味を説明する」という意味です。つまり、この書を正しく理解するために必要な中国の人名、地名、故事に対する解説を加えた書という意味です。書名からも、朝鮮の人民が中国の歴史を理解するのに必要な常識的な知識を伝えようという意図でこの書が編纂されたことが分かります。

『資治通鑑思政殿訓義』は、当時中国で出回っていた『資治通鑑』に関する様々な注釈を最大限に参考にしました。この書の序文には、同書が当時存在していた注釈書のレベルを大きく超えるとともに、読みやすくて核心的な注釈を付した注釈書を制作する意図で編纂されたことが記録されています。

朝鮮時代前期の代表的な文臣である徐居正(1420~1488)は、自著『筆苑雑記』で『資治通鑑思政殿訓義』に対するプライドを次のように表現しています。

「訓義ほど詳細で精密な書は世の中にないであろう。私はわが国の訓義が最も優秀だと思う」。

これ以降、この書は朝鮮時代の国王の経筵と王世子の書筵の教材として、繰り返し読まれました。

寄贈者の美しい心まで宿った書

1435年6月に完成した『資治通鑑思政殿訓義』は、1436年2月に刊行されました。朝鮮時代の書籍の刊行は、王室と中央政府がこれを主導しました。本の普及は、主に中央で印刷を終えた物を各地方に送る方法や、臣下に下賜するかたちで行われました。世宗は、この書の編纂を始めた1434年に30万巻の用紙を準備し、500~600セットを刊行して普及する計画を立てたといいます。

しかし、1セットが294巻にも及ぶ書籍を500セット作ろうとすると、その費用と労力を確保するのは大変でした。さらに、版木でこの規模の書籍を作ろうとすると、版木を数千枚彫らなければならないという難点があります。結局、世宗の当初の考えとは異なり、分量の多い同書は金属活字で刊行されました。完成した書は、294巻の100冊本でした。

世宗の主導により編纂された『資治通鑑思政殿訓義』は、やはり世宗が制作した活字の傑作品である甲寅字で印刷されました。出版に強い関心を持っていた世宗は、印刷の効率性を高めるための活字の開発に力を注ぎ、その結果として作製された活字が甲寅字です。明の版本の字体をもとに作製したこの活字は、それ以前に作製された癸未字や庚子字と比べ、印刷効率が向上しただけでなく、字体も美しいです。甲寅字の作製後、この活字をもとに5度にわたって再鋳が行われたほど、朝鮮時代にその優秀さが長く認められていました。

1772年に甲寅字をもとに5回目に作製された壬辰字の大字 1772年に甲寅字をもとに5回目に作製された壬辰字の大字

1772年に甲寅字をもとに5回目に作製された壬辰字の小字 1772年に甲寅字をもとに5回目に作製された壬辰字の小字

しかし、残念ながら世宗代に刊行された『資治通鑑思政殿訓義』は、現在完本で伝わらず、わずかに数冊が散在して残っているだけです。もともと発行した部数が多くなく、長い年月を経て散逸してしまったためです。

国立中央博物館に所蔵されている宝物第1281-1号『資治通鑑思政殿訓義』は、世宗代に刊行された数少ない現存本のうちの一つです。この本は『資治通鑑』の巻236から巻238で、唐の徳宗の貞元17年(801)から憲宗の元和7年(812) 8月までを収める歴史書です。

世宗の主導により編纂された『資治通鑑思政殿訓義』巻238(宝物第1281-1号)の巻末部分 世宗の主導により編纂された『資治通鑑思政殿訓義』巻238(宝物第1281-1号)の巻末部分

『資治通鑑思政殿訓義』には、思政殿でこの書の注釈作業をしたという事実が示されています。 『資治通鑑思政殿訓義』には、思政殿でこの書の注釈作業をしたという事実が示されています。

この本の冒頭には、まず「資治通鑑」という題名と巻首が登場し、その次に2行にかけて編纂者である司馬光の官職と名前などが印刷されています。この部分は、版木に全文を彫り、活版にはめ込んだものです。何度も使われる長い肩書きのため、このようにしたのだと思われます。最近の人が、役所や会社で官職や部署名などを彫ったハンコを使うのと同じ理屈です。そして、4行目に「思政殿訓義」と明示されており、世宗が集賢殿の学者とともに編纂の責任を負っていたことが分かります。

このように『資治通鑑思政殿訓義』には、世宗の書籍への愛情と歴史への尊重、立派な統治への熱望が込められています。

ここにまた一つ、付言すべきことがあります。『資治通鑑思政殿訓義』は、2011年に亡くなられた宋成文先生(1931~2011)が2003年に国立中央博物館に寄贈したものです。貴重な文化財を惜しげもなく寄贈してくださったお方の美しい心までも宿しながら、この書はこんにち一層まばゆい光を放っています。