沈得経肖像 : 文 東 洙

先人との共感

端正な姿勢で椅子に座っている士人の肖像があります。東坡冠に平服を身につけ飾り紐のついた細條帯で腰を締めています。ここに華やかな水色の革靴の雲鞋を履いて、かかとを少し浮かせたような姿勢を見せています。壮健な身体で唇の紅い生きた人物を描いているように思わせますが、実のところこの肖像画は死後に描かれた肖像、すなわち遺像です。

同時代に生きた知人たちがこの肖像画を見たら、どのような感情が湧きあがるでしょうか? 彼が何者かひと目で見抜くことができるでしょうか? もしそうであれば、世を去った彼と実際に会ったかのような錯覚を起こし、たちまち様々な感情が交錯するでしょう。このように知人の肖像画と対面する人は肖像画の中の人物との共感を通して楽しみを得、ときには感動します。このような肖像画のことを指して、伝神がよく表現されていると言います。

沈得経の生涯

沈得経(1673〜1710)の本貫は靑松で、字は士常です。彼の父である沈柱は成均生員を務めました。沈得経はもとより判中樞府事、判義禁府事、都摠管などを歴任した実父沈檀の次男でしたが、伯父である沈柱に子がいないことから養子に出されることになりました。

沈檀は海南白蓮洞に生まれ尹善道(1587〜1671)に学問を習ったため、尹善道のひ孫である尹斗緖(1668〜1715)と沈檀の次男である沈得経は幼少より面識がありました。

沈得経の母は尹善道の長女であったため、沈得経と尹斗緖は従甥と従叔父の関係にありました。沈得経は尹斗緖より5歳年下でしたが、21歳になった1639年(粛宗19)に尹斗緖とともに式年試を受験しました。当時の科挙試験の結果を記録した『癸酉式年司馬榜目』によれば、過去に受験した100人のなかから沈得経は三等に合格し、30位を占めました。彼は進士となりましたが官職には就きませんでした。これは恭齋尹斗緖も同様でした。同じ立場にあった2人は互いに交友関係を保ち詩文を吟じあう唯一無二の相手となりました。

蘇軾(1037〜1101)を崇拝した画家尹斗緖

尹斗緖, 《蘇東坡肖像》, 『尹氏家寶』, 朝鮮時代17世紀末〜18世紀初め, 紙本墨画, 22.4 × 14.2㎝, 海南綠雨堂

尹斗緖, 《蘇東坡肖像》, 『尹氏家寶』, 朝鮮時代17世紀末〜18世紀初め, 紙本墨画, 22.4 × 14.2㎝, 海南綠雨堂

尹斗緖は平素より孔子、孟子のような中国の歴代の聖賢たちを尊敬し『三才圖會』や各種の文集に収録された聖賢たちの姿を収集して自ら描きました。朱子や蘇軾などの宋代の儒学者や文章家たちを好み、彼らの生涯を生活の手本としましたが、そのなかでも北宋代の蘇軾をたいそう崇拝しました。文人でありながら詩書画に秀でて唐宋八大家に属し、儒学と道学にも精通した蘇軾の生涯が、自身と似ていると考えたためです。蘇軾の「伝神論」もまた尹斗緖が ‘対象を正しく観察し描く方法’ に気づくための多大な影響を与えました。

伝神と観察は同じ原理である。人間の天真な姿を得るためには、その方法は当然複数の人間の中で観察しなければならない。今どのような人間に衣冠をすっかり整えて座らせ、一つの事物を注視させ容貌を端正にさせたら、どうして天真な姿を再び見ることができるだろうか?

蘇軾の「伝神論」は、演出された不自然な状態よりは自然な姿の肖像画を描かなければ精神を正しく捉えることができないと理解することができます。蘇軾がこのように ‘精神’ を重要視した理由は、通常人間の姿は変化しても精神は変わることはないと考えたためです。自然な状態でなければ人物の個性や特色を描き出すことが難しいと思ったのです。

尹斗緖が蘇軾を崇拝した形跡は彼の著書である『記拙』においても垣間見ることができます。蘇軾の《墨竹図》について画評を残し、『尹氏家寶』には彼が自ら描いた蘇軾の肖像画も伝わっています。鶴氅衣に東坡冠をかぶった《東坡眞》が該当する作品であり、日常生活における文章家らしい気品がにじみ出た肖像です。尹斗緖は日頃最も慕っていた知己である沈得経に、蘇軾の学者らしい姿を投影して描きました。年下の友人でありながら40歳を超えられずに世を去った沈得経のために尹斗緖は肖像画を自ら手がけることになり、その後4か月で完成に至りました。

沈得経肖像の分析

尹斗緖, 《沈得経肖像》, 朝鮮時代1710年, 160.3cm × 87.7cm, 宝物第1488号

尹斗緖, 《沈得経肖像》, 朝鮮時代1710年, 160.3cm × 87.7cm, 宝物第1488号

沈得経の肖像は3幅の絹を1つに繋げて描かれ、絹の大きさは縦160.3cm, 横87.7cmです。尹斗緖は彼の姿を写実的に再現するために、顔立ちだけでなく身長までも細やかに考慮しました。最近の研究結果によれば、朝鮮時代15世紀から19世紀までの男性の平均身長は161cmであったそうです。絵の中で沈得経の座高が133〜134cm程度であることを考慮すると、実際の背丈は161cmよりもはるかに高かったと考えられます。肖像画の中に置かれた椅子は割合に高いほうですが、なによりも尹斗緖が実物を良く表現するために沈得経の身長までも考慮して描いたその細やかさには驚嘆せざるをえません。

画面の上段には “定齋處士沈公眞(定齋處士沈公の肖像画)’ という隷書体の題目があります。定齋は沈得経の號であり、處士は官職に就くことなく草野に埋もれて暮らす士人のことを指します。東坡冠に便服姿で、背もたれのない四角い椅子に両手を袖の中で整然と合わせた拱手の体勢で端正に座っている沈得経は、處士の姿そのものです。

沈得経は1710年8月21日に38歳で息を引き取ります。この絵が尹斗緖が単に彼を思い起こしながら描いたのではないという点は、4か月という長い制作期間からも理解することができます。11月に絵を完成させ沈得経の家に送りましたが、当時の状況は南泰膺が書いた『聽竹畵史)』に鮮明に伝えられています。それによれば “肖像画に毛1本さえ誤りがなく、壁に掛けたところ家中の者が驚いて泣き、まるで孫叔敖がよみがえったようだった” といいます。子を亡くした憐憫と悲しみがどれほどのものであったかは、義理堅く聡明な楚の宰相に喩えたことからうかがえます。

彼の友人である李潊(1662〜?)は沈得経の外見と内面を2篇の讃詩として淡々と描写しました。

気品高くずば抜けた骨格、淡々として澄んだ気質、心と精神が純粋で玉のように澄み渡り氷のように冷たい。賢明かつ謙虚で公明正大である。顔は整っていて長く、顔色は明るくかぐわしい。眼は明るく透き通って鼻筋がまっすぐに通り、唇は紅く歯並びは整っている。耳は涼しげで後れ毛は薄く、眉は上品でひげは清潔である。立ち振る舞いは礼儀正しく丁寧で、声は清らかで潤沢を帯びている。堂々とした姿の肖像画よ、実際に生きていて直接見ているようであり声が聞こえてくるようだ、ああ。彼のこの容貌を見ずして誰がその性格と心映えを知り、心映えを見ずして誰がその徳性を知ることができるだろうか。 (形端骨秀, 質淡氣淨, 心純神粹, 玉潔氷㓏. 仁厚謙愼, 公直光明. 面方而脩, 色晢而馨. 目淡鼻端, 唇赤齒精. 耳凉鬢疎, 眉端鬚淸. 端恭其儀, 淸汗其聲. 遺像儼然, 宛如其生, 彷彿其見, 怳惚其聽. 嗚呼, 匪子之氣像, 孰知子之德之誠.)

李潊は絵で表現して伝えることの難しい沈得経の気質と品性を補完するかのように、また異なる讃詩を付け加えました。

水面に浮かんだ月のように清いその心、氷のように冷たく澄んだその徳性、問うことを好み力を尽くし実践してその学びを確たるものにしたか。彼が私から去り道を見失ったかのようなこの上ない悲しみよ。(水月其心, 氷玉其德, 好問力踐, 確乎其得. 惟子之吾, 喪道之極.)

尹斗緖はすでに旅立ってしまった人である沈得経へ向けた恋しさと追悼の気持ちを、厳粛に整理して書いたと明かします。

粛宗36年の庚寅年(1710)11月に書いたが、当時は沈得経公が息を引き取って4か月が経っていた。海南の尹斗緖が謹んで整え心を込めて書く。
維王三十六年庚寅十一月寫, 時公歿後第四月也. 海南尹斗緖謹齋心寫.

また尹斗緖の上から2番目の兄である尹興緖が1717年に沈得経のために書いた墓誌には、

沈得経は立ち振る舞いが美しく、心に抱くことが穏やかで欲が無い。心安さが秋の月が池に映るさまに似ていて、蓮の花が泥の中で咲いても匂い立ち汚れることのないようだ。

とあり、沈得経が香しさと清廉さを備えた朝鮮時代の士人であったという事実を含蓄に富ませて良く表現しました。

前の讃文を見ても、尹斗緖は直感的な洞察力に優れた文人画家であったことがわかります。彼が沈得経肖像を描く際に最も心血を注いだことは、友に内在した固有の性質と普遍的な特徴を捉えることでした。この点に着目して形状を再現することで周囲の人々に実際の人物と相対しているかのような錯覚を起こさせ、大きな感動を与えたのです。

沈得経肖像は、描いた画家と対象との間にどのような共感や意思の疎通があるときにそれがうまく反映されるのかという点を代表的に示す絵です。優れた肖像画を決定づける核心とは可視的な形状、すなわち外形上の類似も重要ですが、対象の内的な本質や精神世界をうまく投影させて再現するところにあるということを改めて悟らせる作品です。