富嶽三十六景 東海道 程ケ谷

保土ケ谷は、今の神奈川県横浜市保土ヶ谷区に該当する地域である。江戸と京都を繋ぐ太平洋沿岸道路である東海道の53の宿場のうち4番目の宿場であった。絵の中では、松が並ぶ道の間に見える富士山と、その前を通る旅行者たちを描いている。画面左下には足を止めてわらぐつの紐を締め直す旅行者が、画面中央には馬に乗った僧侶一行がいる。僧侶が乗った馬を引く従者は松の隙間から見える富士山を眺めているが、これに伴い鑑賞者の視線も自然に富士山に向かう。実際に保土ケ谷の近くにある「品濃坂」という場所は、ずらりと並ぶ松が創り出す絶景で有名であったが、北斎はこの松を画面前面に配置し、その隙間から富士山が見える絶妙な構図を造り出した。「程ケ谷」が属するシリーズは、北斎が70代に製作した代表作の一つである。富士山が見える地域の風景を描写した46枚からなるシリーズである。富嶽は富士山の別名である。商業的にも大きな成功を収めたこの版画シリーズは、19世紀ヨーロッパで流行したジャポニズム(Japonism)を通じて、ヨーロッパ芸術界にも影響を及ぼしたことで有名である。松の木々の隙間から見える富士山の描写は、フランスの印象派画家でモネ(Claude Monet、1840-1926)の名作「ポプラ並木」連作に影響を与えた。モネは「ポプラ並木」の構図を単純に模倣するのにとどまらず、常に自分の体験をもとに再創造しようとした。その例の1つがモネの「ポプラ並木」である。モネはこの作品で海を見下ろす道路沿いでリズミカルに揺れる木々を描いた。また、1883年に住居としたジベルニのエフト川沿いでは、ほぼ一定の間隔で植えられているポプラの木々を見て、そのシーンの背景要素をほとんど省略したまま、ポプラが河川に照らされる破格的な構図実験を行った。西洋画家たちは北斎の構図を見て衝撃を受け、それまでアカデミーで学んだ定番の風景画という図式に疑問を持ち始めた。つまり、これまでの風景画とは、神が与えた、人間が支配する自然の雄大さと豊かさを表現するものであり、遠近法に沿って前面には大きな木々や岩などを配置し、遠方には山や海などを展望するものだと考えていた思考が破られたのである。北斎の風景は、人間の視覚的体験をもとに虚を突く構図と、陰影のないさわやかな色面構成、同じモチーフを繰り返しいて描くなど、それまで西洋には存在しなかった表現方法であった。例えば、目の前に木々や網のようなものがあるとき、人間の目はその物体を越えて見ることができるが、西洋にはそれを直接的に表現した作品はなかった。また、四季や天候の変化に敏感な日本では、雨と雪を線描に表現したり、風が吹く様子を木々を反らせたり人の姿で表現したが、これは西洋では考えられなかった方法であった。もともと浮世絵は商業目的で製作されていたため、新たなものを追求する顧客層にアピールするため、斬新なアイデアで作品を製作する必要性があった。その結果、このような奇抜な構図が誕生し、西洋の画家たちはこの表現方式を自分たちの作品制作に取り入れた。

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